創業者  泉 四郎のあゆみ

昭和2年12月23日 (1926年)
石川県能登半島の農家の四男(10人兄弟の8番目)として生を受ける。
昭和18年10月
飯田中学校四年生在学中に海軍予科練を志願、合格。甲種13期飛行予科練習生として鳥取県美保海軍航空隊に入隊。その後、操縦術練習生として、天橋立にある峰山海軍航空隊に入隊。九三式中間練習機(赤トンボ)で連日猛特訓、速成教育を受ける。
昭和20年7月
鹿児島県鹿屋の特攻基地へ移動。8月16日に敗戦を知る、「8月20までに全員退去」の命令。能登に帰り農業に精を出す。
昭和23年10月
北海道夕張郡栗山町の「丸小旗矢金物店」に丁稚奉公に入る。
昭和40年7月
札幌市白石区東札幌に「丸泉旗矢金物店」開業。
店主 泉四郎

今だから伝えたい・・・

『海軍特別攻撃隊回想』

「予科練(海軍飛行予備練習生)へ」

私が飛行機に興味を持ったのは6歳のときだった。でした。家から徒歩で1時間くらいのところの海岸に民間水上機水蒸気が着水した。10日くらい前に話しがあったのを聞いて、友達と弁当をもって見に行き、そのとき夢を持ちました。空を自由に飛んでみたいと思った。中学2年生の時に太平洋戦争が始まり、パイロットへの希望がわいてきた。そして中学4年生の時に予科練受験をしたのであった。希望が現実になってきました。

日米開戦の時ちょうど中学2年生、開戦を聞いた時は感激と興奮で身の引き締まる思いがした。その日から勉強はそっちのけで銃剣術や戦闘訓練だけの数日が続いたのを覚えている。そして毎日毎日の戦果に酔い、必ず勝つと信じていた。その後、開戦当時の戦局とはうらはらにアッツ島玉砕、そして4月18日には山本五十六司令長官の機上戦死と、戦況我に有利にあらずと聞くともうじっとしてはいられず真っ先に予科練に志願した。時に15歳と10ヶ月の紅顔の美少年(?)であった。国のため、君のため家族のためと志を大にして大空を翔る日を夢見つつ一次試験、二次試験を無事通過、合格通知を受け取った時の喜びは一生忘れることはできない。昭和18年10月1日まだ工事中だった美保海軍航空隊に入隊した。

ちなみに実技試験は「眼をつぶり片脚立ち」「ロープぶら下がり」「回転椅子」などである。

「予科練」とは飛行機搭乗員としての基礎教育の場である。気力体力、精神力を養生し、不撓不屈の海軍魂をたたきこむ。誰か一人悪いことをしたら連帯責任で総員罰則。(陸軍はビンタ、海軍はバッター)「月月火水木金金」(こんなところに来なければよかったと何回も思った)。しかし、規律正しい訓練は私の性格を変えてくれたような気がする。何でも5分前の訓練、他人様に迷惑をかけてはならないなど、あたりまえのようなことばかりだが、現在の私の接客その他日常生活にたいへん役立っていると思う。


「峰山航空隊飛行練習生」時代

六ヶ月あまりで予科練教程を卒業、予科練終了前に適性検査があり、「操縦」と「偵察」とに分かれた。運よく「操縦」に選ばれ、京都府の天の橋立の隣にある「峰山海軍航空隊」に入隊した。

到着の翌日「赤トンボ」(九三式中間練習機)の前部座席に乗せられ、後部座席に教官が乗りこんで「離着陸訓練」、「編隊飛行訓練」、上空2000メートルでの「特殊飛行訓練(宙返り、失速反転、垂直旋回、錐揉み)」等、実践的な訓練であった。上手な者から単独飛行が許可されるので、みな一生懸命やった。約一ヶ月で全員が単独許可となった。 後部座席には安定させるために50キロくらいの砂袋を積んで飛んだのである。「赤トンボ」は金属製もあったが、大半はベニヤの布貼りで、起動はクランクを回して「スイッチオン」するものであった。

「特攻訓練」

戦局が悪化し、だんだんと米軍が日本上陸に近づいてきた。私たちは米軍が沖縄より鹿児島県の南部に上陸することを想定してその艦隊に特攻をかける練習が始まった。

飛行場の隅に模型飛行機を置いて突っ込む訓練、上空1800mからまっさかさま。その後、海上に漁船をチャーターして突っ込む訓練をしたが、漁船が「恐ろしいからいやだ」というので駆逐艦「初霜」を置いて突入訓練をした。昼間、朝方、夕方、月夜、闇夜、とどんな状況でも絶対に成功するように訓練を受けたのである。当時は「有視界飛行」なので雨降りの時には飛ばなかった。

  • 特攻の訓練中は特に夜間飛行訓練が始まってから事故も続発した。
  • 夜間編隊飛行中、一機遅れて発進し追いつこうとして近道をして山腹に激突した。
  • 編隊飛行中、右旋回の際四番機が三番機の尾翼をガリガリ。
  • 夜間計器飛行中、海に出て航法を間違えて帰らず焚き火を焚いて待った。
  • 駆逐艦「初霜」に降爆中に引き上げが遅れて海中にドボン。

右端が若き日の泉 四郎

その後事故が続発して短期間中に10名の仲間を失ったが、格納庫の中に祭壇を作って海軍葬を行う。その写真の取替えをしながら送ってやった。事故ではないが、仲間が一人外出時に親との面会がばれて総員罰直。その後彼は七つボタンに着替えて日本刀で割腹自殺を遂げた、次の日日本刀は取り上げられた。

戦後の各記録を読むと、特攻隊員に選ばれたものは茫然自失、迷い苦しみ虚脱状態になり錯乱状態で突っ込んでいったとその恐怖感絶望感が生々しく描写してある。しかし私の場合そんな空気はまったくなく、選ばれた誇りこそあれ、死に対する恐怖など切実なものとして迫ってはこなかったような気がする。若かったから、知識が浅かったから、生についても死についても思い悩むことが少なかったともいえるが。精神教育のすごさ、恐ろしさを実感している。

しかし今となって目的がどうあれ、純粋に本当の命を燃やし続けた期間は自分の生涯であの頃だけだったとすべてのことが懐かしく思い出される。精神的肉体的な試練を経たあとの淡々とした心境はけっしてやせ我慢でも強がりでもなく若いなりに到達した悟りの境地でもあったと思う。


「鹿児島県鹿屋基地にて」

5月末頃、「神風特別攻撃隊飛神隊」と自分たちで名づけて、もう一人前と自信満々であった。実際は負け戦で零戦などはほとんど沖縄特攻に使ってしまったので、最後は練習機で250`爆弾を取り付けて突っ込むことに決定された。「忠」「義」「礼」「武」の4っつに分かれる。一回だけ250`爆弾を取り付けて離陸の練習をした。滑走路の端から端まで滑走して操縦桿を引く、やっと上がるのです。一回のみで2回はやらないが、離陸の自信はついた。

神風特別攻撃対飛神隊忠武隊伊牟田小隊の三番機ということで偵察教官も含めて5人で海軍葬用の写真を撮って、昭和20年7月、飛神隊の第一陣として九州南端の鹿屋基地に転進した。爆弾は陸送で、われわれは自分の飛行機で、敵機の爆撃の合間を縫って姫路、岩国、福岡を中継し鹿児島の鹿屋基地へ。その途中、瀬戸内海を低空飛行で飛んだのだが、その風景は本当にすばらしかった。小島に軍艦がたくさん横付けされていて土を盛り木を植えて偽装してあったけれど明らかに軍艦であることがわかった。上空からそれを見て「日本は大丈夫か」とその時少々寂しかった。

鹿屋基地に入った時、防空壕の中に先に出撃して行った搭乗員の遺品が積み重ねてあった。中には荷造りをして家族の名前と住所を書いたものがあったが、我々も出撃したらこのように放置されるのかなあと思うとちょっとショックであった。毎日毎日山奥の防空壕の中での「今日か明日か」の出撃を待つ日が続いた。防空壕の中では二段ベッド暮らし、トランプや花札をしたり歌を歌ったり、飲んだりの生活であった。

250`爆弾を赤トンボの腹部に取り付けて対空砲火を潜り抜けて敵艦に体当たりする、今から思えば大胆な作戦だったと思うがその時は何も考えずただ自分はこうするためにこの世に生まれて来たのだということのみ念頭にあった。


昭和20年7月
 8日  海軍葬用の写真を撮る。
 9日  練習生教程卒業。別離の宴開催。
10日  忠武隊40機鹿屋に向けて発。(雨降りで中止)
11日  雨降りで中止。
12日  雨降りで中止。
14日  改めて鹿屋に向けて発進。中継地岩国空に着陸。お寺に宿泊。
15日  福岡空に向けて発進。21日まで滞在。
22日  特攻基地鹿屋空に到着。山奥のバラック兵舎に入る。
25日  米爆撃機が煩雑に来るため横穴式防空壕に入る。
27日  鹿児島市内に大爆撃あり。
31日  一回だけ出撃訓練を実施。
昭和20年8月
16日  天皇陛下の玉音放送があったことを聞く。まもなく米軍が鹿児島に上陸してきて搭乗員の○○を抜くといううわさ。
19日  全員20日までに基地退去命令が出る。

「敗戦」

8月15日特殊爆弾が落ちたということを聞いたが玉音放送は聞いていない。16日、総員整列があった。いよいよ出撃かと思ったが、「解散」だとか「家に帰っていい」だとかわけのわからないことを言っている。そのうち偉い人は飛行機で飛んで帰った。まもなく米軍が上陸してくるとかの話あり、飛行機で帰れるものは帰れ、近くの飛行場に降りて燃やせ、と。鹿屋駅はすごい兵隊で、押されて汽車の下に入り死んだもの多数。丘の上に引っ張りあげて筵をかけてやった。列車で一週間かかってたどり着いた奥能登では「特攻隊員が皇居の二重橋広場に突っ込んだらしい。きっと四郎も帰って来ないだろう。」と父母が語り合っていたという。

『されど赤トンボ』(平成17年8月発行「北の甲飛十三期・・・回想 時は流れて・・・」より) 

1.地獄の飛練

大篠津という初耳の駅で汽車を降り、第二美保空(現米子空港)に入隊した。司令はあの高橋俊作である。1200名のうち、石川・富山・福井の三県のものは500名を超えた。「小数の中から多数選ばれた貴様ら」教員のしごきのセリフのように28000名の甲飛十三期がいたとは知らなかった。昭和19年7月憧れの飛練に進んだ。峰山航空隊(当時は分遣隊)である。が、ここはまた地獄であった。予科練で甘やかされていたとは思わないが月とスッポンほども違う「鍛えられ方」であった。「前支え」からバッターの嵐とお決まりの罰直の中に飛練特有の飛行場一周があった。それも列線作業で疲れてからだ。しかし我々は予科練一万メートルの優勝分隊で俊足と粘りがあり、かろうじて凌いだ。

さて、この年丹後の峰山は大雪で、格納庫が潰れたくらい。冬期の飛行作業は福岡空で行われた。玄界灘から吹き付ける季節風は強烈で、横転などの特殊飛行をしているといつの間にか博多の市街地の上に来ていた。飛行機が風に流されることが身にしみてわかった。20年2月、実用機の延長教育に進むことになった我々120名は、戦闘機とか艦爆とか希望の機種を書いて提出した。これが罠だった。特攻機と書いたものが少なかったことで2日がかりの大罰直をくらった。我々の乗る飛行機はもうないのだ。そしてすべての隊で飛練教育中止となる。換わって75名が特攻隊員に編成された。残りの三十九期も四十一期も四十二期も搭乗割りがなくなった。


2.中練特攻隊

特攻隊の訓練が始まって、3月になり峰山に帰ることになった。基地移動訓練をかねての体験だった。これは後に鹿屋へ転進するのに役立った。特攻隊は250キログラム(25番と呼ぶ)爆弾を抱いて体当たりするのだ。しかも訓練は夜間ばかりとなった。編成は100機で、「飛神隊」と命名され、峰空は連合艦隊に編入された。海軍全部で1000機編成、本土決戦のとっておきの戦力であった。

変わったのは飛行整列である。分隊士も教員も同じ練成員であるから小隊ごとに全員が並ぶ。教員とは呼ばず○○兵曹と呼ぶ。我々も練習生とは言わず搭乗員として扱われ、5月1日から○○兵曹と呼ばれた。

訓練は沖縄へ水上特攻をかけた「大和」に随伴して生き残った駆逐艦「初霜」を標的艦として実施、毎夜攻撃を繰り返し延べ2000回に及んだ。「初霜」の乗組員は「大和」とともに対空戦闘を繰り返し戦争の現実を体験している。この赤トンボの特攻機をどんな気持ちで見ていたろう。後に艦に見学に訪れた時も誰一人をして冷やかしめいたことばを聞かなかった。

あるよ、ガスがかかって上空からまったく「初霜」が見えなかった。闇夜との戦いだ。わずかな月明かりから海面をなめるように光芒を追っていると黒い文鎮のような「初霜」が瞬間捉えられた。この夜同級生が舷側すれすれの海中に突っ込んで殉職した。プラスのGがかかり、機体も沈む。110ノットは瞬間の判断である。

また洋上では毎秒15メートル程度の風は常に吹き「九三中練」で夜間の偏流測定は偵察の神様でも難しく、機位を失することがある。それもあって海軍葬はしばしば行われ悔し泣きをしたものであった。

我われは4ヶ月の訓練で搭乗回数170回、飛行時間100時間を越えた。この間ドラム缶5500本の燃料を消費した。当時の海軍が1箇所で1000トンの燃料を使うということは如何に期待していたか、如何に真剣であったかを物語っている。

3.鹿屋基地へ進出

我々は夜間飛行のプロと認められて八重桜を貰い、7月14日、白いマフラーをなびかせて総員見送りの中、4機ごとの編隊離陸を行い峰山基地を発進、鹿屋に向かった。「飛神隊」「忠武隊」40機である。このうち30機が三十九期である。ちなみに私の愛機はミネ八六九号であった。岩国、福岡を経由して18日全機無事鹿屋に到着した。長駆900キロである。この時期制空権は米軍が握っておりグラマンに襲われなかったことは幸いであった。

峰山航空隊では、特攻隊の移動に備えて、岩国、福岡、鹿屋などに整備科や主計科で編成した派遣隊を配置していたのも成功の一因であった。

我々は一週間もすれば出撃命令が出るだろうと思い、少々の身の回り品と着替え程度を落下傘バッグに入れて機内に積んで出た。しかしすぐには出撃の機会は来なくて、米艦載機を見上げながら分解分散してある秘匿掩体壕へ通う毎日が続いた。

『鹿屋基地錦谷防空壕跡地探訪日記』《1985年(昭和60)4月》

はじめに

昭和20年7月21日より8月21日まで、我々神風特別攻撃隊、飛神隊・忠武隊は「沖縄方面より本土に接近する敵機動部隊に一機一艦を葬る」を合言葉に、鹿屋特攻機地の人里離れた山奥の錦谷にある洞窟の中で、今日か明日かと出撃を待っていて終戦を迎えました。戦後40年たった昭和60年春、同志とともにこの洞窟を訪ねました。鹿屋、それは一生忘れることのできない私の青春のふるさとです。

昭和60年4月13日、その日の札幌は抜けるような青空が広がりあくまでも澄み切っていた。いよいよ40年ぶり、戦後初めて鹿屋基地を訪れる日が来たのだ。
慰霊碑

05:00、起床とともに心はもう鹿屋の空に飛んでいる。今日は40年ぶりに会える当事の教官や戦友もいるとのことで。さて、一体誰に会えるのか、想像を巡らすだけでも心が弾む。

10:30、ほぼ満席の乗客を乗せたエアバスA300は滑走を開始。ジェット機特有のエンジン音を響かせて離陸する。羽田までの所要時間は1時間20分、速いものである。水平飛行に移ったところで鞄からおもむろに、持参の『青春の群像』(峰山海軍航空隊の記録)を取り出して読み直すうち、心はいつしか回想とともに40年前の鹿屋をさまよい始める。

昭和20年3月、峰山海軍航空隊での飛練教程を終えた我々を待ち受けていたのは、特別攻撃隊編成であった。
「九三中間練習機に250キロ爆弾を装着、沖縄周辺の敵艦めがけて体当たりを敢行」これが我々に課せられた責務だった。零戦でさえ装着すると速度が落ちるのであるから、その速度はより遅くなり成功率は極めて乏しいものであると判っていても特攻隊編成に当たっては全員が全員「なんとしても志願しなければ」という一種異様な熱気に沸いて、躊躇することなく手が挙がって志願したのだった。

しかし、「特攻」を成功させるための訓練の厳しさは言語に絶するものであった。敵の目に触れずに目的地に到着、突入できるよう夕刻から夜間にかけての編隊飛行や降爆訓練が主で編隊灯や翼端灯など一切灯を消しての編隊飛行では目安になるのは排気管から噴出す焔の大きさだけ。ちょっとでも気を緩めれば接触事故になりかねず、超人的な操縦技術が強いられたものだった。また夜間の降爆訓練では暗闇のため引起し時の高度の判定を誤って海面に激突、という悲惨な事故が毎日のように続出した。朝、談笑しながら一緒に食事をしていた戦友が夜には帰らぬ人となって遺品整理をするのも日常茶飯事であったものだ。

それにしても今日は誰と対面がかなうか、特攻隊編成当事、海軍葬用にと小隊別4名ずつ一組で撮った写真を取り出して眺め井利、改めて顔と名前を頭に刻み付ける。

それからそれへと回想をめぐらすうち、11:50、機はドンピシャリに羽田空港着陸ノーバウンドで見事である。(○)

少憩ののち13:50発鹿児島空港行きA300に搭乗する。鹿児島までの所要時間は1時間30分の予定とのことであるが、40年前のちょうど今頃、我々飛神隊・忠武隊の40機が編隊を組み、敵機の目を掠めながら峰山航空隊から飛び立って、途中あちこちの飛行場に立ち寄り、何十時間もかかって飛んだ時のこ都を思い出すと実にに感無量である。今度は機内もあちこちに空席が目立って大変静かである。やがて宮崎上空を過ぎ、いよいよ15:30、鹿児島空港に着陸する。(今回は1回バウンド△)

空港を出てからホテルへ行く途中、道路わきのツツジが早くも満開で、さすが南国、と感心させられるが道幅の狭いのも驚きである。バスはその狭い道路をフルスピードでホテルに向かう。

17:00集合場所の鹿児島東急ホテルに到着したが、どうやら私が一番最後の到着のようである。一歩ロビーに入ると、居た、居た。40年前の戦友たちが。懐かしいあの顔、この顔。正真正銘40年ぶりに会う顔もある。「ヤア、オウ」と握手を交わすうちに万感胸に迫り、ジーンと熱いものがこみ上げてくるのを覚える。

一休みする間もなく18:00総員集合の号令がかかる。藤村事務局長から経過報告が行われたが、同志、島崎君肝臓がんのために死去、と訃報が伝えられ、一同唖然となった。”元気のいいヤツだったが、やはりガンには勝てなかったか…、気の毒に。”彼の生前を偲んで黙祷し、一同涙とともに合掌。

やがて19:00、待ちに待った懇親会の幕開けである。「酒」と注文すると驚くなかれ、自動的に銚子に焼酎が入ってテーブルにならぶのである。さすが「芋焼酎」の本場鹿児島である。「日本酒」と改めて指定しないと酒は出てこないそうで、改めて日本語の使い分けのむずかしさを教えられる。お互いにあの当時、40年後にこうした形で再会する事など想像出来ただろうか。しみじみ生き永らえていてよかったと思うことしきりである。


4月14日、本日も05:00起床、曇天ながらまあまあの天候である。

朝食をすませて07:50ホテルを出発、フェリー桟橋へ向かう。桜島の噴火による降灰で至るところ真っ黒で実にヒドい。程なく08:45垂水港到着である。上陸して直に小塚公園に向かう。この公園には「特攻隊戦没者慰霊塔」が建立されており、ここで鹿児島市役所の板山秘書広報課長の出迎えを受けて、一同新たな感激を覚える。さらに南日本新聞社の記者も取材に来ており、当時この基地で特攻訓練に明け暮れた模様などを詳しく聞かれそれぞれ40年前を回想しながら暫し語り合った。

慰霊塔の前に石碑があり、刻まれている二つの句が思わず目を射った。

 今日もまた  黒潮おどる  海原に
                             飛びたち行きし
                                           友はかえらず
太平洋戦争中、鹿屋基地より飛び立ち肉弾となって散った千有余の特攻隊員の御霊よ安かれ
                                                 必ず平和のいしずえとならん 
		 
		             昭和33年3月20日      鹿屋市 

沖縄を目指して特攻機の殆どは、この鹿屋基地から飛び立ち爆音と共に南の空に消えていった。護国の神として散華された先輩の御霊よ安かれ。一同心から合掌、祈念する。

小塚公園を後にして、やがてバスは鹿屋の海上自衛隊正面に到着。門柱に「第一航空群鹿屋航空工作所」「鹿屋教育航空群鹿屋航空警務分遣隊」と記された二枚の看板が掲示されている。鹿屋基地広報官に案内されてさっそく基地内の見学を開始。「これが婦人自衛官の官舎」とか「これが○○」とか。懇切丁寧に説明を受け感興を新たにしたが、驚いたことに敷地の一隅に旧海軍で使用した飛行機格納庫が残っており、近くに寄ってみると建物のいたるところに機銃掃射の弾痕が生々しく残っていて、激烈を極めた空襲の模様が偲ばれ、思わず粛然となった。管制塔やレーダー室などもゆっくり見学させてもらったが、飛行訓練中常に「開聞岳ヨーソロ」と目安にして飛んだその開聞岳は探せど雲に隠れて姿は見えずまことに残念である。

11:00より資料館の見学を始める。あの当時、毎日のように出撃して行った特攻隊員の遺書がよくもこれだけ揃えたものと感心するほどびっしり展示してある。同行の加藤隊員が、「その中に同期生2名の名前を発見した」としんみりされていた。「神雷部隊・桜花隊」隊員の遺書・遺品もあり、見て歩くうちに、知らず知らず目頭が熱くなって涙がとめどもなく溢れ、みな黙々と無言で歩いた。

11:15、資料館を後にして、いよいよ最後の目的地、錦谷の壕跡へ向かう。現在は鹿屋市の水源地となっているところから、途中より水道局長同乗の広報車の先導で、我々の車は錦谷へと走る。

錦谷洞窟にて

11:36、我々が錦谷洞窟に到着すると、一体いつから準備されていたものであろうか、ちゃんと天幕が貼られており、テーブルにはお茶やお菓子、それに焼酎まで並んでいて、至れり尽くせりである。先着の水道局の職員のかたも数名、わざわざ接待役として出向いてきておられ、その歓待振りにはまったく頭の下がるおもいである。やがて挨拶もそこそこに、内部を照らしている投光器の照明を頼りに三々五々穴の中へ入っていく。中は思ったより広々とした感じで「こんなに広かったかなあ」と思ったりするが、用意周到な藤村君は、持参の懐中電灯をカバンから取り出してみんなの足元を照らしてくれた。

内部にはもう当時を思い起こさせるようなものはかけらも残っておらず、がらんとした感じであるが、こ子が40年前の夏約一ヶ月間、今日か明日かと出撃の命令を待ちながら共に寝起きしたところか、と感慨をあらたにした。藤村君がこれも持参のビニールの袋をみんなに配る。洞窟の石ころを記念に、甲子園球児よろしく袋に入れて持ち帰ろうという次第。壕の中に立ち、壁に触れ、袋に石を詰めて感無量である。

あの当時、16〜18歳の少年たちは、この洞窟の中で毎日何を考えながら生活していたものだろうか。私自身は裸電球の下でトランプや花札に興じていたくらいしか記憶に残っていないが、おそらく夜毎の夢は親兄弟の顔ではなかったろうか。

12:10、お世話になった水道局の方々にお礼を述べ、言い知れぬ感慨を胸に帰途につくべく錦谷を出発する。さらば鹿屋いつまでも名残は尽きない。


戦後すでに40年が過ぎ去り、やがて41回目の終戦記念日を迎えようとしている。
北海道新聞記事

太平洋戦争はもはや歴史上の一こまとして次第次第に忘却のかなたへ遠ざかりつつあるが、我々日本人として永久に忘れてならないのは、昭和19年秋から終戦に至る間、国家の存亡をかけた戦いの最後の策として強制に近い形で繰り返された「特攻」という名の体当たり攻撃である。厳然たる事実として歴史に残るこの「特別攻撃隊」の主役であったのは、その殆どが20歳にも満たない、あどけない面影を残した予科練出身の搭乗員たちであった。ひたすら祖国の安泰を願い、自己の生命と引きかえに一機一艦を葬ることによってのみ、両親や弟妹たちを戦火から守れるものと信じて彼らは黙々と爆弾を抱き、再び帰ることのない空へと飛び立っていった。フイリピンで、沖縄で、あくことなく繰り返された壮烈果敢な体当たり戦法は、おそらく世界の歴史にも例を見ないものであろう。そして、遠からず我々も諸先輩の後に続くのが至極当然のことと自分に言い聞かせ出撃の日を待ちながら毎夜「死ぬるため」の訓練に励んできたのであった。

その日が後数日後、というギリギリの瀬戸際での終戦。あとほんの一週間あの戦争が長引いていれば、今日ここに集まった顔ぶれの何名が突入、散華していたことだろうか。私自身さえおそらくこの世に生き残ってはいなかっただろうと思うと真に感慨無量である。

 われわれは若干17,8歳にして国のために死ぬことを強要され、それと避けられぬ運命としてごく素直に受け止め、ここ鹿屋の地で「死」と隣り合わせの青春の日々を過ごした。到底現代の青少年たちには理解できぬことであろうけれど、こうした体験は永久に忘れることのできぬものであるし、また、埋没させてはならぬものであろう。
 
40年ぶりの顔を見ると、お互いもう還暦に手が届く頃となって、それぞれ社会の重鎮として活躍中であるが、こうしてひとたび一堂に集まるとたちまち40年前と同じ顔つきに戻り、目を輝かせながら同じ口調で語りだす。誰も彼も、あの当時の強烈な体験が忘れられないのだ。

今回は戦後40年にしてはじめて実現した隊員同士による視察旅行とあって再開できた喜びと感激に興奮が覚めやらず,熱を帯びたその語らいは尽きることを知らないのである。

最後に、この視察旅行を企画してくださった事務局の藤村君、札幌ー鹿児島間の搭乗に格別の配慮をいただいた全日空機長の安田君、このお二人に深甚な感謝を捧げたい。


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